鈴木大介 商品

鈴木大介 カフェ1930

オーボエの古部賢一とギターの鈴木大介のduoです。収録された全曲は2人だけで演奏されているわけですが、全く退屈しませんでした。ブラジル人作曲家のセルソ・マシャド、アルゼンチンのアストル・ピアソラの曲が多く含まれているので、前半は近現代ラテン音楽家の作品集という性格をもっているのでしょうか。

後半は、ラヴェル「ハバネラ形式の小品」、有名なフォーレ「シシリエンヌ」、セイシャス「『鍵盤楽器のためのソナタ集』~シシリアーノ」、チマローザ「4つのソナタ」、ヴィヴァルディ「ソナタ ハ長調」などを取り上げていました。クラシック音楽も2人にかかると新鮮な響きを伴って現れるようでした。

現代曲もクラシック音楽もそうですが、繊細な音楽もリズムを強調した音楽も、優れた音楽家の手になるとこれほど景色が変わるものなのか、という素朴な感想を持ちました。
それほど1曲1曲が輝いて聴こえます。奏者は同じなのに、奏法の変化もあるのでしょうか、全く違って聴こえるから不思議です。
音楽はメロディとハーモニーとリズムで構成されるわけですが、オーボエとギターだけで、その音楽の3要素を完璧に仕上げられるという証明のようなアルバムでした。

冒頭のカルロス・ジョビンの名曲「イパネマの娘」は不思議な雰囲気の前奏から始まりました。思わず曲名を見返したわけですが。鈴木大介の編曲の冴えでしょうか。
オリジナル曲とは微妙なハーモニーの変化を付けていますので、ボサ・ノヴァなのに現代のクラシック音楽のような香りが伝わってきます。古部賢一の柔らかい音色が良い意味で気だるさをもたらしていました。

2曲目以降のマシャド作曲の「夜のサン・パウロ」「ヴァモ・ネッサ」「サンバマール」「涙のないショーロ」を初めて聴きましたが、魅力的な音楽を紡ぐ作曲家です。セルソ・マチャード(Machado, Celso)という標記で語られることもありますが。メロディ・メイカーですから、聴き飽きることはありません。軽やかなリズムの刻みと和声がラテン音楽の魅力を伝えていました。
「涙のないショーロ」に代表されますが、魅力的なメロディと音楽の変化がリスナーを楽しませてくれました。

ピアソラの音楽は説明不要でしょう。「リベルタンゴ」もリズムの切れ味が魅力的でした。激しさの中に抑制された音楽美が感じられる演奏でした。duoですので、メロディとオブリガードの交替が面白く伝わります。
「オブリビオン」の演奏の美しさは格別でした。名手の冴えが凝縮されて現れているようでした。
エンリオ・モリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」では、この曲が持つ懐かしさと寂しさがダイレクトに伝わってきます。鈴木大介の編曲が和声と構成に変化を付けていますので、味わいが代わり飽きません。ただの美しい音楽ではないという主張も伝わってきました。今後、このduoで様々な違うジャンルの音楽を聴きたくなる思いが募りました。それを触発させる音楽でしたので。

古部賢一は、「東京藝術大学在学中に新日本フィル首席オーボエ奏者に就任」したという実力の持ち主です。これほど伸びやかで甘い音色のオーボエは中々聴くことが出来ません。高音の響きの美しさは格別でしょう。宮本文昭が引退した今、代わりにその位置を占めて欲しい奏者だと評価しています。

鈴木大介も以前からアルバムを通して、関心を持って聴いているギタリストです。いずれの演奏でも感じられますが、ここまで安定した音楽を聴かせられるのは、円熟味を増した技量があればこそですが。アルペジオの滑らかさ、ピチカートの透明感、旋律の浮かび上がらせ方、何れも一級品の演奏でした。
2013年12月17と18日、2014年1月7日に収録されていました。 カフェ1930 関連情報

鈴木大介 おいしい水 Agua de Beber

冒頭の「テイク・ファイヴ」の4分の5拍子のリズムの妙と和音の移ろいの楽しさ、繰り返し演奏されるメロディの崩し方、ギター2本だけで豊かな音楽が作れますという見本でしょう。3分強という演奏時間ですので、もっと聴いていたくなる1曲でした。

懐かしのB・J・トーマスの歌声が聞こえてくるような「雨に濡れても」も興味深く聴きました。難しい技法もあるのでしょうが、いとも簡単に演奏してしまっているので、心地よさだけが上澄みのようになって伝わってきます。3分前後の変化は、スパニッシュ・サウンドを意識したようなアレンジでしたが、ギターの音色の魅力を前面に出すものでした。

「ヒア・カムズ・ザ・サン」もオリジナルの雰囲気を壊さずに、至極真っ当な演奏が展開されますが、音量を上げて聴くことで、臨場感が増してきました。名手がお互いの素晴らしさを知りながら、丁々発止と掛け合う様が目に浮かぶようです。

プログレッシブロックやジャズ、民族音楽等をルーツに持つ鬼怒無月と、クラシック界を代表する鈴木大介という2人の名ギタリストのデュオです。音楽ジャンルを超えて、互いのギターを尊重しながら寄り添い、大きなうねりとなって返ってきました。

「やさしく歌って」でも感じられますが、2つのアコースティック・ギターが絡み合いながら溶け合って1つの音楽を作り出す時、1+1は3にも4にもなるという音楽の化学反応を聞かせてもらいました。原曲の流れから少し外れていく中で2人の別の音楽世界が見えてくるようです。ギターによる対話でしょうか。

アルバム・タイトルにもなったボサ・ノヴァ「おいしい水」のスピード感から快感が伝わってくるようです。とてもお上手ですね。名手2人で奏でるとこのような変化技が生まれるわけで、卓越した技術の裏付けと豊かな音楽性を聴かせてもらいました。単なるBGMのような雰囲気ではなく、一瞬一瞬が輝きに満ちた上質で豊潤な音楽が綴られています。

「黄昏のビギン」の抒情的な演奏も素敵でした。音楽の心地よさ、信頼できる演奏者同士の心の通い合いが伝わってきます。ギターでの静かな会話のキャッチボールが演奏の中で展開していました。 おいしい水 Agua de Beber 関連情報

鈴木大介 最貧困女子 (幻冬舎新書)

地方都市の様子が、私が社会人になって飛び込んだ周囲の様子と似ていて、今ならマイルドヤンキーと分類された地域性だったと再認識しました。現在、同じ地方都市に住んでいますが、ここ10数年で急速にベッドタウン化し、住んでいる人も町の様子もずいぶん変わったように思います。(ヤンキーっぽさが薄れた?車の運転マナーが良くなった、スーパーなどで聞く言葉遣いがお上品になった、など。)
当時の知り合いにたまに会うと、私は部外者でしたが、懐かしく感じます。ベッドタウン化によって、つながりが薄れたところもあれば、新たに作ろうという動きもあるのでしょう。

帯の宣伝文句は扇情的で、興味本位の内容かと予想しましたが、実は深刻・衝撃的であるものの、筆者の一貫して真面目で良心的な姿勢に感動しました。取材した女性たちの境遇の深刻さ(読むのもつらい気持ちになります)に、筆者は打ちのめされつつ、聞くだけ・情緒だけに流されず、その場で、彼女たちに解決方法を具体的に書いて教えたり、お金を無利子で貸してもよいとまで言ったり、助ける実行動をしています。また本書の後半では制度的な解決・改善策を頭を絞って考察・提言したり、悲惨さに逃げ出したくなりながらも這ってでも対象に1ミリでもにじりよって行くような筆者の姿勢には、☆100コくらいあげたいです!!(1973生まれ・若い!)見習いたい!

ジュンク堂で買いましたが、平積みで最後の1冊でした、10月初版で、12月ですでに8刷となっています、とても売れているようです。このような深刻な”めんどくさい”問題の、真面目な問題提起となる本が売れるとは、扇情的宣伝文句も、でかした!と思いました。 最貧困女子 (幻冬舎新書) 関連情報

鈴木大介 アムズデザイン(ima) ルアーケース3010 imaホワイト

今までいろいろなルアーケースを買ってきましたが、これが一番いい感じです。
収納スペース◎
仕切り等による小分け収納
頑丈さ◎
ケースのロック部分◎
ってな感じです。
特に最近どこのメーカーもロック部分の造りが甘く、しばらく使ってるとパカパカしてきて気がついたらルアーが散乱してるなんてことも・・・
釣り場についていざルアーをセットしようとしたときにバッグ等の中で散乱してて、更にそのルアーがバッグ等にズブッと行ってたら相当なタイムロス・・・
因みに2回程経験あります・・・
しかし、これは違いますね!
さすがimaです。
いい仕事するな~。
ただ1個だけ悪い点を挙げるとすればちょっと洗いにくい所でしょうか?というのも、同社製の違うルアーケースは横に穴が開いていて、そこに水道水をぶっ掛ければかんたんに洗えるという代物があるのですが、それと比較すると洗うのが面倒です(笑)
比較対象がちょっとおかしいですかね?(笑)
でも、それ以外に欠点の無い頑丈なルアーケースです。
おすすめです! アムズデザイン(ima) ルアーケース3010 imaホワイト 関連情報

鈴木大介 閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

より多くの日本人読者を想定した場合、もう少し注釈が必要ではないだろうか。

人々―メディア―広告―企業
人々―メディア―組織票―政治屋
人々―メディア―記者クラブ―官僚

ざっくりとだが、昭和時代の日本の情報構成。 情報は一方通行で読者や視聴者へ。 世界潮流と言っていいネット文化の中ではもはやガラパゴス化も甚だしいが、日本の年齢別の人口比率からいってもこの体制はまだまだ続きそうである。 かつてホリエモンは自分が「マードックになる」と言った。 これは、当時の「すべての情報をインデックス」し、誰でも情報にアクセスできるようにするというGoogleの根本原理からさえも遅れており、たとえ実現したとしてもせいぜい『王』がすげ変わるだけの話だったのだ。 同じ思いを今の橋下徹にも感じている。 なぜなら、今時国家斉唱問題などをネタに旧弊としたメディアと手を組み従来と同じ戦術をしているので、表上はTwitterなども使っていても発想の違いはなく、実質は変わらないはずである―これは受験勉強で育ってしまった団塊ジュニア世代の限界ではないだろうか。 所詮は段階世代の小粒なコピーに過ぎない―私がしばらくは体制に変化無かろうと見る一因である。 とはいえ、少し話が逸れた(というより、日本の現状がそれだけ遅れているということかもしれない)。

人々―情報ツール―人々

これがネット時代の構成である。 しかし、いまやすでにその黄金期に陰りが生じ始めていると本著は警告する。 Facebookのようにネットの多くの部分が閉ざされると、上述のGoogleの根本原理は達成不可能どころか、Facebookが大きくなればなるほどGoogleにとっての死角も大きくなる。 焦ったGoogleは根本原理から外れてFacebookを『追撃』し始める。 この過程にはGoogleにも同情の余地があるかもしれないが、問題なのは、ツールに徹底しようとしたGoogleモデルの敗退で以前のモデルに逆戻りしつつあることである。 つまり、この情報ツールの部分がその利用者のことではなく広告主の方を向きつつあるということだ。 情報ツールの作成側は利用者を恣意的に結び付けることができるのだ。 こうなると、もはやツールになっているのは利用者の側ではなかろうかというのがこの本の鳴らす警鐘である。 閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義 関連情報