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カチン カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

カチンの森事件の詳細はポーランドがたどった苦難の歴史とともに日本では
これまであまり紹介されて来なかった。
本書はカチンの森の虐殺が誰によって、どのように行われたか、そして
それがどのように隠蔽されて来たか、最新の資料によって解き明かした
まさに決定版といえるものであろう。
1940年3月5日のスターリンの青鉛筆による署名により4月から5月
にかけてオスタシュコフ、コゼルスク、スタロベリスクの3つの収容所など
にいた2万人におよぶポーランド人将校がNKVDにより銃殺された。
そこには、独ソ不可侵条約に付属する秘密議定書によるドイツとソ連による
ポーランド分割の密約の存在と、ドイツのゲシュタポ、ソ連のNKVDという
2つの全体主義国の秘密警察の密接な関係がうかがえる。
1941年6月にドイツがソ連に侵攻するにいたり、この両国の蜜月は終わって
1943年にドイツがスモレンスク郊外のカチンの森で大量のポーランド将校の
遺体を発見した事により、本来は闇から闇に葬られるはずだったカチンの森事件
に歴史の光が当たるようになる。
ナチスドイツは大々的な調査を行って、その結果この虐殺がソ連の犯行である
と判明したと主張するが、ソ連もスモレンスク奪還後すかさず墓穴の再掘と
調査を行いナチスドイツの仕業であると発表する。
あらゆる状況証拠はソ連犯行説を裏付けるものであったにもかかわらず、米英
両国はソ連の主張を否定することなくこの事件を封印しようとする。
米英にとっては、第二次世界大戦が全体主義という悪を倒すための戦いである
という明解な大儀が必要であり、その大儀を守るためにはソ連が悪では世論を
納得させられなかったということだろう。
結果として、ポーランドの犠牲のもと第二次世界大戦後のヨーロッパの秩序は
保たれ、カチンの森事件の真相はソ連崩壊まで明らかにされることはなかった
ソ連がドイツと分割を決めたポーランド東部は戦後もソ連の一部となりポーランド
はヤルタ協定の結果、国全体が西に移動するという運命に見舞われている。
カチンの森事件は、ナチスドイツとソ連という2つの全体主義国に米英を加えた
大国の間で翻弄されてきたポーランドという国の苦難の歴史を雄弁に物語っている。
ハンガリーやチェコで動乱が起きたのと対照的にポーランドは、ワレサの自主管理
労組「連帯」が動き出すまで、30余年にわたって極めて従順な東側陣営の一員で
あり続けたように映る。
そこにも、カチンの森に象徴される知識階級、指導層の大量虐殺が影を落として
いるように思われる。 カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺 関連情報

カチン 「カチン」ときたときのとっさの対処術 (ワニ文庫)

読んでいませんが、短気な人は、もちろんのこと、世の旦那を尻に敷いている奥さんにも読んで欲しい一冊だと思います。 「カチン」ときたときのとっさの対処術 (ワニ文庫) 関連情報