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南木佳士 商品

南木佳士 きのこ文学名作選

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■■あめの日■■八木重吉■■■
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■■しろい■きのこ■■■■■■■■■
■■きいろい■きのこ■■■■■■■
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■■あめの日■■■■■■■■■■■■
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■■しづかな日■■■■■■■■■■■
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☆「なに言ってんだ?」と思われたでしょうが、
 本文そのまんまなんですよ、コレで…
 しかも、『キノコのアイディア 長谷川龍生』は
 コレよりさらに上です…
 内容どーこーより、出版物としての限界に挑戦した
 チャレンジ精神が素晴らしいですね(笑)!
きのこ文学名作選 関連情報

南木佳士 生きてるかい? (文春文庫)

2009年から2010年にかけて共同通信から地方紙に掲載されたエッセイに加筆

芥川賞受賞後にパニック障害、うつ病となったご自身の生き様、そして出自等は他著でも書かれているのでじゃっかんの物足りなさはあるし、くどさを感じる。まあ、初めて読む方には良いかな。
芥川賞直後の「落葉小僧」だけが単行本、文庫本ともに絶版とある。(実は僕はこれが一番好きで両方所有しているのだけれど、、、)
南木さんを担当していた亡くなった女性編集者を村上春樹にも非常に評価していたと書かれている。
編集者が作家を育て作るのだろう。

備忘録メモ

「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものだと明確に自覚出来る歳になった。

だれかの話を聴く。それを解釈した「わたし」の想いを提示する。世界がわずかに広がる。

過去は、書き始めたいた、そして、書き終えつつあるいま、じぶんに都合よく刻々と制作され続ける。

あの夜の静寂を懐かしむのは、過去を、つまり「わたし」そのものを創ってくれた死者たちと闇の中で溶けあっていた、生が死のなかに尻の先から溶けてゆくようなあまやかな感触をもういちど味わいたいからなのだ。 もう、無理、だな。

湖畔のベンチに座り、湖の向こう、低い丘の端に沈む雄大な夕陽をながめていた。速すぎず、遅くもなく、夕陽はゆるやかな深呼吸と同期しつつ沈んでいった。いっさいの出来事はこんな絶妙な速度で過ぎてゆくのだな、と身の深いところで納得できた。おそらく、眼前の豊かな水が想いの深度に影響するのだ。沈んだ夕陽が雲をく染め、過去そのものの移ろいを反映する。色の変化に魅了されたが、腹が減った「いま」にせかれ、宿への帰路を急いだ。

事実は物語よりはるかに複雑で、重い。

小説がかなわない、美しく、グロテスクな現実は常に身近にある。 生きてるかい? (文春文庫) 関連情報

南木佳士 熊出没注意―南木佳士自選短篇小説集

南木佳士さんの自選短篇集であり、南木ファンにとってはお馴染みの作品ばかりなのだろうが、「草すべり」しか読んだことがない自分にとっては新鮮だった。
普段、ミステリや冒険小説などを読むことが多いので、最初、物語としてのテンポの違いに戸惑った。
しかし、読んでいるうちに、じわじわと染みてくるような私小説の深さに触れ、夏目漱石や森鴎外などいわゆる古典的名作ばかり読んでいた学生時代を思い出した。
私小説が身に染みるのは、年をとった証拠だろうか。 熊出没注意―南木佳士自選短篇小説集 関連情報

南木佳士 からだのままに (文春文庫)

2004年から2006年にかけて種々の媒体に発表されたエッセイ。
そんな訳で、初めて読まれる方にはある種繰り返しが多いように感じられるかもしれない。
臨床医師として、文学界新人賞、芥川賞と華々しい流れの中に身をおいた南木さんではあるが、終末医療に携わる中でストレス障害からうつ病へと体調を崩されていく。書くことも読むことも出来ない中で、徐々に、生かされている自分を見つけ出し、医師として、また作家として復帰する。個人的には病気から復帰後の作品に強く惹かれ、己の心の波長に同調する。

いくつかの心に残る言葉。
 五十歳すぎてようやく日本史の勉強を始めている。そもそも日本という国名がいつから用いられるようになったのか。そのあたりを論じる書物を読んでいると、家の前の見慣れた田園風景すら微妙に様相を変えて身に迫ってくる。 p89
 小説を書き始めたのは、医師になって二年目あたりで、人の死を扱うこの仕事のとんでもない「あぶなさ」に気づいたからだった。危険を外部に分散するために書いていたつもりだったが、それは内に向かって毒を凝縮する剣呑な作業でもあった。 p106
 だから若月先生を「農村医学の父」だとか「現代の赤ひげ」と無邪気に称する気にはなれない。しかし、この病院に来なければ、高邁な理想と酷薄な現実が医療現場でどのように折り合いをつけるのか、という、大人としての最低限身につけねばならない教養(生きる知恵)を得られなかったと確信している。 p113 からだのままに (文春文庫) 関連情報

南木佳士 陽子の一日

会話の多い小説に慣れていると会話のほとんどないこの作品がずいぶん寡黙に感じられます。明晰で鋭い文章、精緻な情景描写、時折挟まれる医学解説。いずれもが熟達した医師の手になる小説であることを示しています。本編の主人公は、還暦を迎えた医師・江原陽子。未婚で産んだ息子はすでに成人し、親元を離れて働いています。

この作品には江原陽子の早春のある1日がつぶさに記されています。陽子の下で研修医であった桑原芳明から僻地の診療所の医師・黒田久彦の病歴要約が送られてきました。黒田はかつて彼女と同期の研修医でしたが、彼から多くを学んだことを陽子はいまも感謝しています。

病歴要約には、山村の貧しい母子家庭で育ち、苦学して僻地の医師をめざした黒田の半生が記されていました。彼は自分の使命と信じて僻地医療に赴きますが、妻子には去られ、農村の住民から些細な誤解から疎まれて自分の居場所を失くしつつありました。そしていま急性胆嚢炎に罹っています。その病歴要約を読みながら陽子は自らの半生を振り返るのでした。冷たい母からの逃避、アメリカへ渡って医師として成功したかつての恋人、看護士になった息子、黒田から教わったこと、患者に対する自分の姿勢…。不器用ながら自分の思いに自然に生きてきた陽子は、黒田の病歴要約から読み取れた彼の生き方に自分と共通する思いを感じるのでした。

最新の医療機器がもたらすデータに依存するのではなく、患者の生育歴を重視して診断すべきだ。寿命が尽きかけている患者には治療を控えて自然死を待つのがよい。そうした考えの黒田には住民や患者の家族からの反発がありました。医療の格差、老人問題、終末医療のありかた…。いまの日本の医療をめぐるいくつもの課題が顔を出し、作品に厚みを与えています。

望むものを手に入れても、そうでなくても、人生はそうは変わらないではないだろうか。目の前の課題にちゃんと向き合って、信じることに従って生きるしかないのではないか。完璧なものはないが起こってしまった事態に真摯に対処する。それがやがておとずれる老いと死に対する心構えではないか。この小説は、そんなことをじっくりと考えさせてくれます。作者のこれまでの生き方がそのまま作品として結実しているのでしょう。それが静かな感動を呼び起こします。

主人公の江原陽子がもし実在の人物ならば、ぜひお会いしたい。彼女とはいい友人になれそうに思ったからですが、小説を読んで私がこう感じるのは珍しいことです。 陽子の一日 関連情報

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